読む映画
「感想」に毛の生えた程度のレビューをシコシコ書いています  ネタバレだらけなので、未見の方はご注意ください~
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
革命児サパタ
1951年 アメリカ映画
テレビ録画にて鑑賞
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 メキシコ革命の英雄エミリアーノ・サパタの生涯を描いた作品。
 私はメキシコを二度ほど訪れたことがあるので、サパタやパンチョ・ビリャの名前くらいは知っていました。
 とは言えメキシコ革命のことを詳しく知っているわけではないので、少々消化不良。
 歴史を描くというよりも、「サパタ」という一人物の姿を描くことに主眼が置かれていたようなので、仕方のないことでしょうが。

 サパタはいったい何のために戦っていたのか。
 「農民が土地を取り戻すため」という表現で説明されていましたが、これってちょっとしたゴマカシがあるように思えました。その点が最初から最後まで気になって仕方がなかったのです。
 と言うのも、メキシコ革命を描くのならば、「先住民の戦い」という視点を欠かしてはいけないはず。先住民が不当に土地を接収され、それを奪還しようとする戦いであったはずなのに、「先住民」「インディヘナ(インディオ)」という表現の代わりに「農民」とのみ表現していたのは、ゴマカシだと思います。

 これはアメリカ映画の限界なのでしょう。アメリカという国も、先住民の土地を不当に接収した移民たちが建国した不当な国家であるという生い立ちを持つのですから。
 だからサパタの戦いは、「農民のため」であって、「先住民の権利のため」とはアメリカ映画では表現できないのでしょう。

 監督のエリア・カザンは元共産党員。先住民の権利闘争の意義くらいは当然理解している人のはずなのですが、この映画が作られた1952年というのは、いわゆる「赤狩り」の最盛期。
 カザンは共産党員の嫌疑をかけられ、保身ためにダシール・ハメットら仲間の文化人たちを政府に密告したという、裏切り行為をしていた時代です。
 そんな時代のカザンが、先住民の権利闘争を正面切って描けるはずもないんですよね。

 だったらどうして、カザンは「メキシコ革命」という、彼にとってはキワドいテーマを描こうとしたのでしょう。
 「共産主義への批判のメッセージを込めた」という見方もあるようですが、私にはそれが読み取れなかった。

 いずれにせよ、「転向」したカザンが「革命」を描いたこの作品は、どうにも中途半端なものにしか思えませんでした。
スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。